
修二は、小さい頃から他人に自分のみっともない姿や悪く思われる
ことに極度の恐れを感じている。それは親に対してもそうだ。
その根源にあるのは、結局“嫌われるのが怖い”から。
だから自分の本能的なものを抑えることも小さい時から日常的に
訓練づけてきているから年頃になっても正常に女の子を好きになる
こともない。
でも、彰・信子との付き合いの中で自分の中の開かずの部屋が
中から勝手に開きはじめたから修二としては混乱し、一気に
バランスを崩し始めてしまった。それでもその開かずの部屋には
とてつもないキラキラした宝石がいっぱい詰まっていたから、
その部屋のドアを閉じることももう出来ない。
彰たちと付き合う前の自分が普通にやっていたカラオケやボーリングも
その頃はそれなりに楽しんでもいたんだろう。でももうそこには
一切楽しみを感じることが出来ない。そして、楽しいふりをする
ことさえ出来ない。
おいちゃんの家で3人でビデオを見ながら話してる時は、どうでも
いいようなことにゲラゲラ笑えてしまう自分がいる。
修二は、本当に楽しいってことがどういうことかを知ってしまった。
まり子に対しても、「好きだと思ったことは一度もない」
「これから好きになることもない」とハッキリと言い切って
しまえたのは、本当に好きな人(恋愛じゃなくてもね)と過ごす時の
温泉で手足を思いっきり伸ばせるようならくで心地よく温かい気持ちと
いうものを知ってしまったからだ。まり子と一緒にいる時には
全然感じることは出来なかったんだろう。
人間は、今の自分が知っていること・場所よりも、もっと上があることを
経験してしまったら、もう、こないだまでいた場所に戻ることは
出来なくなる生き物だ。だから修二はもう二度と戻れなくなって
しまったのだ。でもまだだからといって今まで長年慣れ親しんだ場所
(人に好かれている自分)から簡単に離れることも出来ない。
今がいちばん辛い時だ。
ところで、ふと思ったのだけど、
修二の母親は一体いつから今のようなほとんど家にいない生活を
しているんだろう?修二が小さい時からだとするなら、修二がこんな
ふうになってしまったことの説明がつく。
日常的な母性、つまり、女性にありのままの自分を受け入れてもらう
という体験が乏しく、そのため、遠くにいてたまにしか会えない
母親に、いつも自分のことをほんとに愛していて欲しいという欲求が
強すぎて、母親から嫌われるような自分を絶対に出さないように
してきたんじゃないかと思う。それが結局他人に対しても同じ
スタンスになってしまったんじゃないだろうか?
多分、修二ほどじゃないにしても、父親や弟だってそうなんじゃないかな。
みんな母親である伸子に愛されたくてしょうがないんじゃないだろうか?
だから、たまに家に帰った時には、晩ご飯のおかずを、伸子が寝言で
言った物を次々に買ってきたりして。あれはたまに帰ってきた人だから優しく
する っていうのを越えていることだと思うのだけど・・・
修二が自らをガードしている原因は母親不在が関係していると読まれているのですね。
そうね母の愛って全部包んで癒してくれますもんね。そういう安心を覚えてこなかったのが他人との距離感となってるのね。
でも彰と野ブタに出会い、居心地の良さを知ったというのが大きな変化なのですね。
来週、もし孤立してもこの二人がきっと守ってくれるような気がしてきました。
どうぞそうでありますように・・・
コメントありがとうございました♪
>日常的な母性〜〜
そうですね。
鋭い視点ですね。
話はずれますが、
ぼくの好きな、野島伸司さんの
ドラマは、根底には必ず、母性がテーマになっていますね。
それから、
シナリオの書き方で質問があれば、ご遠慮なく♪
それから、
わざわざコメントもどうもありがとうございます。
あくまでも私の推測で書いてるんですけど、この
脚本家の方たちってそのあたりまで考えて書いて
そうですもんねえ人物像を。
かりんさんの詩的な美しいレビュー、また拝見しに
伺いますね!
>GOさん
はじめまして。コメントをわざわざありがとう
ございました。
実際シナリオを書く人の視点で見るドラマの世界
をとてもシンプルに書かれているレビュー。
素晴らしいと思いました。
野島作品は、途中くらいまでは好きで見てたんで
すけど、最近のものは見てないんです。
でも確かに、私が見てた頃のものもたいてい
母性ってキーワードになってたかもですねえ。
最近のはちょっと入り組んだところに向かい
過ぎてる気がするのですが、どうでしょうか?
私もぼちぼち勉強してみたいと思ってます。
はい、何かありましたらどうぞよろしくお願い
いたしますね。